ドラゴン桜のカドで過去の自分の後頭部をコツンとやりたい

dragonzakura

 

『ドラゴン桜』を読み終えました。とてもさわやかな読後感、いい漫画とまたひとつ巡り会えたという気持ちです。

僕が知っているなかでも、かなりのレベルで極論や断言が多い漫画ですが、それがまた気持ちの良い一刀両断感を出していますね。

僕がこの漫画で一番印象に残っているのは、新しい指導方針を決めなければいけなくて悩んでいる井野という教師に対し、主人公の桜木がおまえは考えているふりをしているだけで、それはなにもしてないのと同じだ、と断じたシーン。

たとえ話として、目の前に流れは弱く、深さも腰程度しかない川が流れていて、見渡す限り橋はない。でもこの川をどうしても渡らなければいけない。さてどうするか。桜木は井野に対してこう問います。
井野は「腹をくくって濡れながら渡る」と答える。しかし桜木は、それは手抜きだと言い放ちます。そして「東大に入るような子は、なんとかして濡れずに渡る良い方法を考えようとするものだ」と。利用できるものはなんでも利用して、効率的に物事を解決することこそ、賢いということである、という論理です。

井野は指導方針を考えるにあたり、ただ机に座って悩んでいるだけで、別になんらかの資料を調べているわけでも、参考になる本を読んでいるわけでもありませんでした。それは桜木から見れば手抜きであり、実質的になにも考えていないに等しいのです。せっかく世の中には先例や情報があるんだから、それを利用せずに一人で考えようとするのは、むしろ怠慢であると。

なるほどね、と思いました。雑誌を作るとき、音楽を作るときも、すでに存在している世界で活動しているわけですから、優れた作品や参考にすべきテクニックはいくらでもあるわけで、それらを無視するのは効率的ではないですね。

この話の本質は、必ず先例にならって物作りをしなければいけない、ということとはちょっと違うと思います。既存の作品や情報を一通り見渡したうえで、それらがくだらないと判断するのもまたひとつの考え方です。
問題があるとすれば、情報収集を怠ること。これは手抜きですね。これから缶コーヒーの新商品を開発するなら、コンビニや自動販売機をチェックして、今どんな缶コーヒーが販売されているかをチェックするはずです。

なんでこんなことを今書くのかというと、僕自身が井野先生のような手抜きをときとしてしてしまいがちだから。市場調査だったり、資料を調べるのってけっこうな労力が必要だから、気を抜くとぜんぜん情報の蓄積がないにもかかわらず、自分の頭だけで考えようとしてしまう。そして余計に悩み、時間がかかってしまう。そう、この記事は自分へのある意味戒めです。

それにしても、ドラゴン桜、もっと早く読みたかったな。受験生のときか、あるいは教育関係の会社にいて大学受験に関わっていたとき、この漫画を知っていれば…なんて思うわけであります。まあ学生時代に知ったところで僕が一生懸命勉強をしたかは分からないけど、少なくとも学習塾時代に知りたかったな~。